愚者の曲解

伺水の雑記。

書くことを考えるとき

こんにちは、伺水(@moto8an_shisui)です。
カテゴリーに『想う、感じる』というのを追加しました。
何でこのカテゴリーを追加したのか、という話です。

ぼくは、ほぼ日を読むのが習慣になっています。
糸井重里さんの話や言葉が好きになってから読むようになったのですが、10年くらい前からですかね。
その対談記事の中で、糸井さんが『思う』で文章を締めることが多い、ということを言っていました。
で、この『思う』という言葉が使えないと、毎日書き続けることは、とてもできないとも言ってました。
(ほぼ日のトップコンテンツに、今日のダーリンという糸井さんのエッセイがあり、毎日更新されています。)

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この話を読んだとき、ものすごく共感してしまったんです。
断定で物事を言うというのは、すごく勇気がいることだ、と想います。
あ、ちなみにぼくは、『思う』より『想う』の字の方が好きで、こっちをよく使います。

話を戻して、断定で物事を言うとき、その内容に間違いがないのか、すごく気になります。
最後に『思う』を入れることができれば、不思議なくらい気にならなくなるんですよね。
自分のではない観点で見たときにどうであるか、ということ等を、多大な時間と労力をかけて考えてしまいます。
しかも、考えても答えが出ないケースの方が圧倒的に多いという…。

そうすると、だんだん言えなくなるんですよね。
言いたくなくなってもくる。
何となくこわくなってきて、考えれば考えるほど、その恐怖も増してるんだと想います。

これは、ブログを書くときも同じです。
自分ではよくわからないのですが、ブログを書くときに、『思う』内容を多用して書くのはどうなんだろう、と勝手に自分にプレッシャーをかけているような気がします。
誰かに言われたわけでもないし、誰に制約されたわけでもありません。
自分でそう想って、自分で制約をかけたんです。

そうすると、だんだん書くことができなくなったり、書きたいことが浮かばなくなってくるんです。
そんな状態に陥っていたんだなぁと、この記事を読んで気付きました。
誰かの文章(本)を読むのは、やっぱり良いことですね(笑)

で、自分の『想う』をもっと開放してやっても良いのかな、と想いました。
これが、カテゴリーに『想う、感じる』を追加した理由です。
せっかく文章を書く練習をと始めたことなので、そんな理由で止まってしまってはもったいない。
自由奔放に、好き勝手に書けば良いかな、と想った今日この頃です。